2010年04月23日

フランス映画史 第一回 映画の始まり(抜粋3)


(『赤ん坊の食事』に関して)

「うららかな陽ざしと、そよ風に揺れる草木。
 家の庭さきに出したテーブルには、
 飲み物の銀器や陶製のカップがならび、
 椅子にちょこなんと腰掛けた、
 まだ頭の毛も生えそろわない赤ちゃんを
 体格の豊かな父親と母親が両脇から囲んで、食事させている。

 この赤ちゃんはむろんいまはもういませんが、
 スクリーンの上ではまぎれもなく生きているし、
 今後も生きつづけることでしょう。

 この「存在論的な」なまなましさ、
 つまり、人やものがこの世にあること自体の感動にこそ
 映画という装置の発明が人類の歴史にもたらした
 最大の驚きがあるのではないかと思うのです。
 これが映画だ!」


この中条さんの文章には、心の底から感動した。

感動、という言い方は非常に嫌いなのだが
それは最近のメディアにおいてあまりに安易に
この言葉が垂れ流しにされており
その動機が安易で商業的で空虚なものにすぎないからである。

わたしが中条さんのこの文章で感じたことは
まぎれもなく、感動だった。

わたしはこれまで
(「フランス映画史の誘惑」を読むまで)
リュミエール兄弟の映画に
ここまで深い感慨をもったことは無かった。

彼らのことは単なる映画の創始者に過ぎず
映画史的に一応名前は覚えておいた方がいい人物
という程度にしか認識していなかった。

中条さんが
そのリュミエール兄弟の作品に
ここまでの深い、いや、人間存在の根源的な感動を
感受していることにこそ
心底、震えた。


そう。
例えば、坂本竜馬のファンならば分かってくれないだろうか。

あなたたちが愛してやまない坂本竜馬の写真が
現在にも残っているという事実。

それ以前の歴史上の偉人、権力者達のほとんどが
肖像画でしか観ることができないのにくらべ

竜馬は、本物の彼そのものに、
生身の人間に最も近い状態で、
写真が残っているという事実。
そこに大きな感動を覚えないたはずではないだろうか。


リュミエールの『赤ん坊の食事』と同様に
死んだ後も、竜馬は写真の中で生き続けているのだ。


リュミエールの『赤ん坊の食事』は
竜馬のような偉人を映したわけではない。

私たちと同じ、一般の人間の
家族、家庭の映像である。

しかし、そのわたしたちと同じように
人生を人生を生きた彼ら「時間」は
例えそこに映った赤ちゃんが
年老いて亡くなっただろう今となっても
生きつづけている。

この、映像の力。

「時間」を閉じ込める。
「時間」を保持する。

その力。


腹に、重く深い感動を感じざるを得ない。


ごくごく当たり前のことだから
見逃し、忘れがちだが
リュミエールは、次のことを再認させてくれた。


映像とは「人間の存在」を
映し出すことができる装置である

ということを。


わたし自身に向かって思い切り叫びたい。

その事実に、驚け!







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2010年04月22日

フランス映画史 第一回 映画の始まり(抜粋2)

(リュミエール兄弟の映像と、映像の本質)


「いろいろな現場作業、あるいは
 ふつうの人が行けないような未知の場所や
 ダンスやサーカルなどの見世物芸、大きなセレモニーなど
 珍しいできごとを観客に見せるというアイディアは
 映画の装置を手にした興行者なら
 まず最初に思いつくものだといっていい」


写真が発明される以前。
人々は、現実味の薄い絵画という手段や
現物を視覚でとらえることの不可能な文字伝達という手段でしか
自分の住む場所からはるか、果てしなく遠く離れた土地のことを
知ることができなかった。

簡単に言うと、現物を直接見ることができなかった。

写真の発明は、それを可能にした。

人々は遠く遠方にの土地を、実写で見られることに
さぞかし感動したことだろう。

映像は、写真が静止した画ということに比べ
さらにそこに動きが加わることで
より現実に近い記録を可能にした。

映像は「時間」を記録できるのだ。


そんな映像に人々が期待するものも
写真に通じるものがあるだろう。

つまり、リュミエールが表現した記録映画に見られるような
「ふつうの人が行けないような未知の場所」という
非日常的空間を表現するできるという可能性に対する期待である。

シナリオの先生達が
「なかなかみんなが知らない職業を描くと面白い」
とよく言うことにも通ずる。

映像には
生々しいほどより現実に近い
現実の時間の切り取りを行うことで
物理的に、立場的に、心理的に
普段観られないようなものを
わたしたちに見せることができる。

さらに、劇場という空間において
より体験的に観せることができる
という事実は、心に刻んでおきたい。








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2010年04月21日

フランス映画史  第一回 映画の始まり(抜粋1)


(語源)

「「キネト」も「スコープ」も語源は古代ギリシア語で
 前者は「動き」、後者は「観察」という意味をもっています。」

「キネマ(動き)」

「シネマトグラフ(活動画)」




(偶然、運命、光)


「リュミエールとは、フランス語の普通名詞で
 「光」という意味をもっています。

 映画の発明者が「光」という姓をもつことには
 なにか偶然をこえた運命の不思議さを感じてしまいます」


映像とは何か?

簡単に、即物的に答えればそれは「光」である。
「光」に過ぎない。

映画とは、暗闇の空間に存在するスクリーンに映し出される
「光」に他ならない。

その映画の創始者の名に「光」の意が
こめられている。

この偶然には深い感慨をもたずにいられない。

映画とは、撮影の際、
偶然そこに何かが映り込むことが多いと言う。

そうして偶然に映り込んだ何かこそ
映画に凄まじい力を与えることがあると、よく言われる。
映画作製において「偶然性」とは重要である。

それならば、リュミエール兄弟の名に
映像の本質ともいえる「光」の意がこめられていたこの偶然も
ことのほか、深く受け取めたい。


さらに個人的なこと。
この新書で紹介されるまでもなく
わたしは、リュミエールの語源である
LUXというラテン語の言葉が
「光」を意味するということを
ずっと前から知っていた。

ある映像作品の劇伴(サウンドトラック)で
「LUX〜救い」
という題名の曲があった。

その劇伴が使われていたドラマ自体は
今では好きではないのだが

その劇伴が
心に暗闇を抱えながらも
自らの内に在る光を信じ
真っ直ぐに道を切り開こうと
苦悩するある少年(内面を示す場合の呼称)の内面を

深く、優しく、強く、真っ直ぐに
その音楽で突きつけてきたことに
何度心打たれ、その劇伴を聴き返したことか。

さまざまな物事に無知であり
さらに言語に関して無知な私が
偶然にも強い意識のもとに知っていた単語
光、をあらわす言葉
LUX。

わたしがずっと心の中で追いかけていた
真っ直ぐな眼差しのある人物の
その目のイメージと重なる言葉。

それが、映画を構成するものの名であり
映画の創始者の名とも一致する偶然
深く受け止めたい。








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